- 私たちについて
- ヒストリー
chapter 01
エンジニア時代
高校を卒業した昭和39年。
私は、東洋工業株式会社(現マツダ株式会社)に入社しました。


高校を卒業した昭和39年。
私は、東洋工業株式会社(現マツダ株式会社)に入社しました。
配属されたのは、ロータリーエンジン設計課。高卒で配属されたのは3人でした。
エンジン設計というのは、自動車メーカーの技術者にとっては花形部門です。その中でもロータリーエンジンの設計課というのは花形中の花形でした。
ロータリーエンジン設計課は、主に東大、京大、九大卒という 技術のエリート集団で構成されていました。会社からすれば、その中での高卒者の位置づけは、エリート技術者たちのお手伝い役だったのかもしれません。
多くの技術を教えてもらったものの、そのほとんどは既に私が知っていることでした。
小学生の頃から父の隣でバイクを見つめ、暇があればバイクいじりをしてきた私は、エンジンや機械の構造に対する知識を、身体を通して身につけていたのかもしれません。
ロータリーエンジン設計課は、試行錯誤の続く研究の場所でした。設計のプロとして、常に新しい構造や技術を学んでいかねばなりません。
月刊誌の「モーターファン」と「自動車工学」を毎月1ページももらさず読み込み、他にも車に関するたくさんの本を読み、自動車に関する知識を蓄えました。
特許の申請が20件を超えた頃、一人の技術者として認められはじめ、会社からの評価も、「技術エリートの手伝い役」という位置づけではなくなりました。私は入社してからの4年間で、自動車の仕事に対して生涯の自信を身に付ける事ができました。
「これまで蓄えてきた知識が実務に活かせる。」そう思った私は退職を決意したのでした。
22歳の時でした。
chapter 02
独立から起業まで
東洋工業を退職し、先輩の起業した自動車用品店を手伝うため、京都に移住しました。残念ながら夢破れ、一年後に広島に戻りました。


東洋工業を退職し、先輩の起業した自動車用品店を手伝うため、京都に移住しました。
残念ながら夢破れ、一年後に広島に戻りました。
広島に戻った私は、叔父が営む自動車修理工場で働くことになりました。
お客様の要望する修理だけを行うのではなく、自分の持っている知識・技術をフル活用し、車が最高のパフォーマンスを出せるようにして納車するようにしていました。
この頃、プライベートでは中古の自動車「コンテッサクーペ」を購入し、身につけた知識と技術を使って、中学以来に分解・組み立てを楽しんでいました。
車高を落として、排気マフラーをスポーツマフラーに交換して、全塗装を自分でして色替え…。故障していなくてもいつも自分で整備し、常に絶好調の性能にしていました。
「コンテッサクーペ」は希少車だったので、外車と間違われる位の車になりました。
古い車を絶好調で乗り回す感覚をこの車で経験しました。
叔父の工場での仕事は、それまでに蓄えてきた車についての知識を活かして経験を積み重ねていくという期間だったと思います。
三年ほどお世話になった後、ついに独立し、26歳の時に吉島で修理工場を始めました。
chapter 03
修理工場から
会社設立へ
吉島で立ち上げた修理工場では、まず始めにメーカー系販売店の工場からの仕事で、12ヶ月点検の作業を下請けとして確保しました。


吉島で立ち上げた修理工場では、まず始めにメーカー系販売店の工場からの仕事で、12ヶ月点検の作業を下請けとして確保しました。
当時の自分は、利益よりも「時間を有効に使う」ことを重要視していました。
「どうすれば、時間短縮できるだろう」とホイール、ナットの緩める順番も考えました。
そんな中、車検整備も請け負うことになりました。
当時は工場に車が2台しか入らないという制約がありました。知恵をしぼり、3人で一台の車を整備してみました。一人でやると1日がかりの作業が1時間で完了することができたのです。それからは3人で作業することにし、作業効率は三倍ほどにアップしました。
作業が早すぎる、と元請けに「手抜き」を疑われ、抜き打ち検査をされたこともありました。
「手抜き箇所は一切なく、全てきちんと行われている、手を入れなくても良いところにも手を入れている」という検査結果によって、工場への信用は格段に向上し、他社よりも優先的に車検の仕事を回してもらえるようになりました。
当時の私は「下請けから脱却したい。45歳までに作業服から卒業してスーツを着てショールームを持ちたい」という夢を持っていました。
工場をはじめて二年ほど経ち、吉島の工場が手狭になってきたこともあり、安芸郡坂町に新しく工場を建て、中古車販売をしようと動きはじめました。
工場の建設後、その土地が「市街化調整区域であり住宅地として設定されているため、工場建設は違法である」と発覚し、営業を開始できなくなるトラブルも発生しましたが、なんとか半年後に無事許可を得ることができました。
工場の近くに土地を借り、中古車販売を始めました。
chapter 04
ホンダとの歩み
コーシン自動車株式会社となってしばらくした頃、本田技研工業の方が訪ねてきました。


コーシン自動車株式会社となってしばらくした頃、本田技研工業の方が訪ねてきました。
「ホンダ車を売りませんか?」
その時の本田の販売店は特約店制度でしたが、「特約店の下に契約店の制度を作る」とのことで、モータースを中心に契約店の展開をしていました。
勿論私も仲間に入れてもらい、契約店となりました。
その後、契約店制度が廃止されることになり、本田技研工業の広島営業所の所長から、特約店にならないかとのお話がありました。特約店になるということは、ホンダ四輪の専属販売店になることを意味します。
ホンダの車は、ディーラー経由ではなく、メーカーから直接卸されるというところに魅力を感じました。ホンダの車や、創立者の本田宗一郎氏の考え方にも共感しており、特約店契約をすることを決意しました。
こうして、コーシン自動車は、広島県下で最後発のホンダの特約店となったのです。